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日本人の罪の意識とアメリカ人の罪の意識

こんにちは!!

 

s-Live東京つつじヶ丘校の宮岡です。

 

 

今回は前回の続きで、『12人の怒れる男』についてです。

 

 

前回で、「死刑するのにはまだ証拠不十分じゃない? 」

という結論が出たぐらいにしては、

 

不釣合いな、晴れ晴れしい表情で、クライマックスを迎えています。

 

 

前回は書いていませんでしたが、陪審員の人々は、

主人公と別れ際に感謝と握手をしていきます。

 

 

では、なぜ、彼らがこのようなことをするのか。

 

 

日本人の感覚では、死刑判決を出さなかったことにより、

救えた黒人少年の命に焦点が行きます。

 

 

しかし、(もちろん現代では異なる価値観の人が多いですが、)

アメリカ人の感覚としては、陪審員自身へと向かいます。

 

どういうことかというと、陪審員は法にのっとって死刑判決を決断したとき、
人殺しの罪を着ることはありません。

 

 

法の中で認められた、合法的な殺人だからです。

 

 

しかし、キリスト教徒としてはどうでしょうか。

 

 

実際に罪を100%犯したわけではない同胞を殺してしまうのは、

キリスト教的には「罪」です。

 

 

実際に刑罰を負うわけではありませんが、日本人的に言えば、道徳的な罪悪感です。

 

 

たとえば、大規模な船での事故や、災害の際に、

助けられる人を見捨てることはもちろん、
食料などの分配のために殺害しても、法では裁かれません。


(強奪をみなされた場合には、もちろん罪に問われます。 

あくまでも生存者たちの利益のためであれば罪に問われないという話です。)

 

ですが、実際にそんな状況になったら、良心の呵責に苛まれると思います。

 

というより、とてもじゃありませんが、そんな状況であっても、

人を殺せるとは思えません。

 


(あくまで、そういう状況を経験したことのない人間の意見です。)

 

 

それと同じような感覚に加えて、キリスト教では最後の審判で、

 

天国行きか地獄行きかが決まります。

 

 

この部分は個人の信心深さによって決まってくるところですが、


映画が公開された当時は、

まだ若者のキリスト教離れなども言われていなかった時代です。

 

映画の中でも、おおよそ、高齢者の方ほど早く死刑反対の意見へ移っていきます。

 

 

もちろん、現代も昔も、高齢者のほうが宗教・道徳に対して信心深い考えを

持っている傾向にあります。


このように、時代も、文化も、考え方の異なる集団では、

自分が思うところと全く異なる結論へと容易に動いていきます。

 

 

ですが、価値観が異なるというだけで、彼らの中にも論理があります。

 

 

これらを理解でき、実際に思考できるかというのが、

 

これからの時代は重要な教養なのかもしれません。